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授業参観のトリセツ
三宅町教育長の「しほさん」です。
久しぶりの投稿です。
私たちが管轄する小学校に電子黒板やAIドリルを導入するために奔走してくれた教育総務課のUさん。
ある日、彼がこんなことを言いました。
「自分は学校のためになるように全力で働きたいと思うんだけど、なにぶん学校で働いた経験がないから、授業を見せていただいてもどういう視点で参観したらいいのかイマイチわからないんですよね。」
なるほど。たしかにそうかもしれません。
みなさんは、もし学校の授業を参観する機会があったら、どういう視点でご覧になるでしょうか?
子どもが学校に通っていないからそんな機会はない、という返答がかえってきそうですが、子どもが学校に通っていなくても、基本的に学校はコミュニティスクールとしてこれからどんどん地域に開かれて(セキュリティーの問題もありますが本来そうあるべき…)いきますから、学校公開日があったり、そうでなくてもきちんと手続きをしたうえで授業を参観していただく機会があるかもしれません。
でも、現在日本中の先生方が「主体的対話的で深い学び」のある授業をめざしていると言われたりしますが、自分たちが受けてきた授業といったいどう違うのでしょう??
ということで、もし学校の授業を参観する機会があったら、どういう視点で授業を参観したらよいか。
授業参観のトリセツです。どうぞ!!
① 「子どもが立ち歩いている=学級崩壊」と思わないこと
子どもたちがみんな前を向いて、黙って先生の言葉に耳を傾けている、という光景を思い描いて教室に入ったら、何人かの子どもが席につかず、立ち歩いている。
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「え、この教室、学級崩壊を起しているの!?」とは思わないでください。先生が制止しようとしていないのであれば、立ち歩いている子どもがどういう目的で離席しているのかをじっくりと観察しましょう。自分の学びのために、友だちの力を借りようとしているのかもしれません。教室内外にあるいろいろな教材を探し求めて歩いているのかもしれません。
そういう自由を先生が提供しているのはすばらしいことです。
子どもたちの表情を見れば、脳が活性化しているかどうかはわかります。学校のありとあらゆる場所が学びの場であるというダイナミックな考えが浸透してくると、教室にきちんと座っているだけでは物足りないことがわかってきます。
「え?今、授業中?休み時間?」と聞きたくなるような教室で、実はとても質の高い授業が行われていることが多いのです。
② 先生が教科の内容を教えないことがダメだと思わないこと
予備校の講師には、カリスマと呼ばれる先生がいらっしゃいます。とても話が上手で、聴き手を授業にのめりこませてしまうのは本当にすごいと思います。こういう先生方を理想に描いて授業を参観していませんか?
カリスマ講師と呼ばれる先生方は大学入試に合格するという共通の目的のために集まった生徒に向けた授業だからこそ力が発揮できていると言えます。
義務教育の学校でも、先生が教科書を教えこむ力のみで、教室の全員を学びに向かわせることができるのなら、そういう先生が学校に何人かいてもいいと思いますし、決してそういう授業を否定はしません。
でも、そういう先生こそがプロだとみんなが思い続けたきた結果、日本の子どもたちから主体性や自己決定能力を奪ってしまったと言えます。
それに気づいた先生方は、ティーチャーからファシリテーターにシフトチェンジし始めているのです。先生がファシリテーターとなって、子どもたちが主体的に教科書やその他の資料を読み込んで自分で学ぼうとするしかけをつくるのです。
ファシリテーターに徹している先生は「何も教えない」ようにみえるでしょう。でもそういう授業で子どもたちの主体性は確実に育まれていきます。
③ その時間の授業だけで完結しているのではなく、単元計画があることを想像すること
上記のようなしかけが組まれた授業では、先生が「はい、いつも通りはじめてください。」と指示したきり、1時間がまったくの自習のように見える授業に出くわすことがあります。
「なんじゃ、これ?先生がサボってる!!」と思われるかもしれません。
でもそれは違っていて、授業は単元でひとまとまりになっていて、単元プランの中の一コマの授業だと考えてください。授業が1時間ごとのぶつ切りではないということです。(かつては、一時間ごとに「導入ー展開ーまとめ」をはっきりとさせることが重要視されていましたが…)
指導案などがあれば、全体計画を知ったうえで授業参観ができていいかもしれません。
④ 子どもたちがPCを使っているだけで「すごい!!」と思わないこと。
国がGIGAスクール構想を掲げ、さらにコロナ禍で一人一台端末の支給が加速しました。久しぶりに授業を参観された方は、小学校1年生から机の上にPCが並んでいて、子どもたちがサクサクと使いこなしている姿に感嘆してしまい、授業の内容がまったく見えなくなってしまうかもしれません。
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いわゆる授業のICT化ということになりますが、要は「必要な時に子どもたちがPCをいつでも使えるように授業が設計されているか」ということです。
そうなってくると、先生が「はい、PCを開いて。はい、閉じて」と一斉の指示のもとでPCを使用しているようでは、まだ文房具になりきれていないと言えるのです。
先生が黒板に書いたことを、「書き写しなさい」という指示がなくても、子どもたちが必要だと思ったらPCに入力するという状態が理想的です。
本来全員が持っているはずのPCを持っていない子どもがいる場合、先生がその子どもにどのような対応をしているかも見どころの一つですね。
⑤ 班活動や班での話し合いはそばで耳を傾けること。
教室の子どもたちの机の配置はいろいろあっていいと思います。固定的である必要はありません。
最近ではコの字型に机を配置したり、もともと班に別れている教室もあります。授業の中で、「対話的な学び」をめざして、いつでも対話が生まれるように授業者がしかけをしているわけですが、大事なのはふだんから班が機能しているのかということです。
それは話し合いが始まったらそばに行って耳を傾けていたらよくわかります。対話に加わることができない、ただのお客さんになってしまっている子どもはいないでしょうか。
⑥ プレゼンや学習発表で失敗が許容されているかどうかをみとること。
あらかじめ参観日がわかっていると、先生方はよくそこにあわせて子どもたちのプレゼンや学習発表をあてることがあります。これもふだんの授業の様子を知るチャンスです。
プレゼンや学習発表の場合は、どうしても先生方には、「見映えをよくしたい」という意識が働いてしまいます。その結果、授業の単元計画が完全にシナリオ化されてしまっていて、発表の方法も穴埋め式になってしまうケースがあります。
子どもたちに失敗をさせたくないという親心なのですが、かえって子どもの主体性を奪ってしまいます。
失敗が許容されるような教室で、思い切って子どもたちを信じて任せてしまうほうが子どもは成長すると思います。プレゼンの授業参観であれば、ぜひ失敗が許容される授業になっているか観察してみてください。
⑦ 「個別最適な学び」の意味をはき違えないこと。
AIドリルを導入している学校が増えてきました。AIドリルというのは、その子どもの学習の習熟度にあわせてAIが問題を選択して出題してくれるものです。これを子どもたちがやっていれば、「個別最適な学び」になっていると勘違いしてしまっている人がいます。
学習の教材が個別化しているだけです。
そうではなく、自分に合う学び方を選択して単元のゴールに向かうというのが「個別最適な学び」の意味です。
一人で考える、友人と一緒に考える、先生に個別に教えてもらうなど、単元のゴールにむかって一人ひとりが学び方を工夫するということです。
そこに「自由進度学習」が自然に生まれてきます。授業参観で自由進度学習の一コマにあたったら、そこでどんな個別最適化がはかられているか観察してみてください。
「授業参観のトリセツ」いかがでしたか?
私も37年間中学校の国語の教師でしたが、授業は反省だらけです。偉そうに書きましたが恥ずかしいかぎりです。
この立場になって全国のたくさんのすばらしい先生方の授業を参観させていただいて、ようやくたどりついたことをまとめさせていただきました。
とにかく、日本の学校教育は、授業で勝負しようという先生方の努力と向上心で支えられています。
今度授業を参観する機会がありましたら、こういう視点でご覧いただいて、日本の先生方の日々のご努力を感じ取っていただけたらありがたいです。